「幸田」地区のイメージはどんな色の組み合わせ?―時々の光と影―
松縁会は、松戸市の「地域イメージ」(松戸ブランド)向上のため、江戸・東京、江戸川低地と下総台地の近接地という特徴を活かします
- はじめに
- 「幸田」の見立て
- 「幸田」のイメージ
はじめに
松戸市「幸田・小金」は、舌先のように伸びた台地の最も北のところに位置します。周囲にはその台地に入り込む谷津田。
はるか昔から、陽ざしのある四季折々に樹々の色あいや盛衰があります。
そこには、暮らしの場として樹々が切り開かれ、住みついた先人も私たちもずっと見てきた光景があります。時々に降り注いだ雨や雪どけ水が、今日の坂川・富士川付近を含む江戸川低地にあふれ、泣かされてきた古の「影」の部分もありました。
先史から、そこは人びとが、おそらく住み続けてきたところです。先人の辿ってきたこの地には、自然と人びとの織り成してきた生業と暮らしの図柄はどんな色彩が見え隠れし、組み合わされてきたのでしょうか。
遺跡「幸田貝塚」が形成される頃、当時は温暖化により氷河が融けて、東京湾が奥深く入り込んでいました。潮の干満のある海岸と樹木の生育する台地の近場を行き来する縄文人は、生き長らえる暮らしのために海辺と森の光景を見ていました。その後、寒冷化とともに低地化した土地は、各時代の人びとの求めに応じて湿地・田となって利用の仕方が変化しています。
「幸田貝塚」(縄文時代前期)の呼び名を通して、人びとの住みつく台地と近くにある低地の色あいと、その後の時を経た様々な人工物の色調との組み合わせを想像してみましょう。
この地区・地域が辿ってきた歩みの「特異性」をもとに、なるべく広く、多くの方々の印象や考えを伺いながら、松戸市「地域イメージ」の方向性を探ってみたいと思います。
「幸田」の見立て
「幸田」の呼び名については、仮説的な謂れとして諸説があります。
ここでは、松戸の先人として縄文時代人の定住的な暮らしぶりを伝える「幸田(こうで)貝塚」の遺跡や以後の遺構等から、一つの見立てを提唱したいと思います。幸田を「こうでん」と読む“音読み”説です。
「こうでん」という呼び名が通称として使用されているうちに、「ん」の省略が定着してきたと見立てます。この地区における暮らしをしてきた人びとは、近くの土地の状況を「幸田」と見るか、「荒田」と見るか、同じ音読みでも“見立て” の仕方によって異なります。
同じところの台地も谷津田も、人びとの暮らしてきた土地の風景は、見方によって「色あい」も時代によって異なって見えているのではないかと解釈するからです。 “幸いな”心地の有様は、明るく清新で原色のイメージで「幸田」、その反対の“荒れた”様子は、暗く汚濁した混色にみえてくる「荒田」なのではないかと思われます。
「幸田」のイメージ
6000年前から人びとがこの地に集まり、定住的な暮らしが賑わっていた頃から土地の風景は、時代を経るとともに変化しながら、今日のように陽光あふれる静かなベッドタウンへと姿を変えてきました。しかし、その地下には時の刻みに応じて人びとの造り出してきた人工物の一部が残り、今もその状況から活発な営みの痕跡が眠っています。
そこで発掘された「幸田貝塚」は、下総台地の西端にあり、標高17~18m付近の舌状台地状に所在する縄文時代前期の貝塚・集落跡と報告されています(「第19次発掘調査報告」2019)。
「松戸市埋蔵文化財分布図」(1997)により作成した図には、「幸田貝塚」をはじめとする他の縄文、弥生、古墳、中近等各時代の遺跡・遺構がこの地域で発掘されています。「国土地理院の空中写真」には自然の色彩豊かな台地状の周囲に低地が広がり、坂川・富士川の付近には今も田が見えます。
下総台地西端という場に時代によって、人工物の様々な色を伴う形を各種各様に変えながら創造し、先人がバランスよく自然の美しい景観に住みついてきました。時代による人口差はあるものの、「幸田・小金」地区・地域は常に人びとの暮らしにとって重要な場所であり続けてきました。
<「幸田貝塚」のメモ>
松戸市 「幸田貝塚」は何と読むでしょうか? - 松縁会
約6,000年前の縄文時代前期大規模集落(住居跡150軒以上)
発掘された266点(一括)は国の重要文化財指定
遠隔地との交流や交易の重要な証拠品 (千葉県幸田貝塚出土品/千葉県)
- 東海・中部地方に分布の中心をもつ土器(「木島式」とされ、静岡県富士川町にある木島遺跡で発見された土器群の特徴から名づけられています)の出土
- 黒曜石(特定山地の火山岩)という貴重な石材の交換・移動ルートの存在
遠隔地との交流や交易は、人の行き来・縁戚関係のつながりや“物々交換”とされる物と別物のほぼ同じ値うちの交換、慣行としての儀礼的贈答(交換)等を通して行われていたと言われています。
この他に、弥生、古墳時代の遺跡・遺構もあり、中世の小金城跡が発掘されてきた歩みがあります。この地域は、継続的に人びとが住みついて暮らしをしてきたことを示し、他地域との交流・交易をしていたことも物語ります。
中世の城跡が発掘されたことは、地域社会の様々な人びとの階層、身分があり、社会のしくみ等を連想させます。そして人や物資の行き交う等付近の土地が活動的に有効な利用をされていたと想像されます。
その後、時代の成り行きで戦場となり“落ち武者化”した人びとの暮らしぶりには暗い影も見え隠れしたことも指摘されています。
この地区・地域は、各時代に土地柄の働きとして各地とつながる特徴を持ち、人や物資の移動が盛んに行われる結節地の役割を担う「地域イメージ」が浮き彫りにされていると認識されます。
時代によっては各地の異なる人や物が行き来し、四季の変化に応じた人びとの交わる空間には、変化のある行事や日常の生活があり、色彩豊かに華やいだにぎわいも感じさせていたと思われます。
何よりも周囲に低地があり、高台にあるこの地区・地域は多量の降雨による被害に見舞われる機会は少ないと推量されます。積雪に覆われた「白銀の世界」はどのように受け止められたか、時々の人びとの心情を図りかねます。
「幸田」のイメージは、時代等によって暗い影の部分もありますが、総じて「幸いな土地」につながる「こうで(ん)」の意味で、他の地域では“重箱読み” となる「幸田(こうだ)」と同じように解されると思われます。
次のテーマでは、現在の「幸田・小金」地区・地域について、多くの方々がどのようなイメージをもっているのか、アンケート方式で松戸をゆかりとする人びとの認識を取り上げていきたいと考えています。