東松戸の景観イメージが語る「松戸らしさ」

松戸市の東部が東松戸地域として新たな地域形成をしています。
 
この地域変化について、景観イメージの相異から「松戸らしさ(ブランド)」を追い求めます。

景観イメージが語る「松戸らしさ」とは

松戸市全体の地形構造は台地と低地に特徴があります。
松戸市=「台地と低地の都市」のイメージです。

このイメージは東松戸でとてもわかりやすく現れています。歴史的な景観イメージのあらましを次のように描いています。

1  先史:台地と低地の狩猟・採集
2  古代〜中世:権勢地(古墳・将門・牧)
3  近世〜現代:新田開発と都市化

東松戸は地形・地名・生活史を一体として語れる地域です。
旧八柱村の地名は、地形と暮らしの記憶が濃厚に残っており、ストーリーとして語れる資源・ブランドになります。
東松戸は「未来の都市景観」をつくるための“原風景”です。

景観イメージとは

景観イメージは単なる“見える風景”ではなく、地形・歴史・暮らしなどが重なり合って生まれる“地域の人びとの記憶や印象”として共通に想い浮かべる情景です。
 
見方としては、地形の特異性と他地域との関連に注目し、地域の自然と暮らしてきた人びとの想い浮かべる景観イメージを取り上げます。
台地の起伏、谷津の湿り気、古い地名に刻まれた暮らしの記憶などが重なり合って、人びとの心に共通して浮かぶ情景のことです。

ここでのねらいは、人の様々な関わりで形成される景観イメージ変遷の根拠を明らかにし、「松戸らしさ(ブランド)」を探求することにあります。
 
下総台地西端付近は江戸川・小河川の低地と谷津の接した地形です。

東京と近接する松戸市には、常磐線・武蔵野線と北総線、道路などが通っています。このため人の移住などがもたらした山林や農地、森、市街地など変わりゆく情景に目を見張る状況があります。 

地形イメージがつくる“松戸らしさ”の原型

 東松戸地域は地形イメージが「地域の性格」を決めていると考えられます。

・台地イメージ(現在の河原塚・紙敷付近の台地)
・低地イメージ(現在の高塚新田・紙敷付近の谷津田・低地)
・新田イメージ(現在の高塚新田・田中新田・串崎新田の地名)
という地形イメージについて対比が明確なエリアです。

それら台地と低地の「地形」のイメージは、かつて台地には山林や畑作、台地の縁からの湧水による谷津の生態があって人家があり、低地は水田として土地の利用があるという感じです。

自然の地形そのものが反映して形成される風景はその“要所”ととらえられます。

地域に暮らす人には、この地形による「地域の性格」を視覚的・感覚的に理解するため“要所”を“地域の顔”としてとらえやすく見ていることを示しています。
多くの人びとが共通にとらえるその景観イメージは、共有する地域景観として記憶や印象にとどめられています。

明治初めにつくられた陸軍作製図と現代の地形図を比べてみましょう。

集落はどこ?            
鉄道はどのあたりに?

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明治初期の「迅速測図」と国土地理院地形図:出典「農研機構農業環境研究部門」

明治初めの図には、黒い図柄で表されている集落は台地の縁に連なり、近くに水田があります。
現代の地形図では、東松戸駅付近の集落市街地を囲んで山林、畑があります。

この二つの図から台地と低地の特有な地形は「松戸らしさ(ブランド)」の基層・原風景になっていることを物語ります。

地名の変化と暮らしの文化

「地名は景観イメージの記憶装置」
地名は、人と人が話をしている時に特定の場所を共通にわかるように示します。
土地の形はこう、何をするところ、何々があったところ、あの人がいたところなどです。
 
近代化のはじめとされる明治期に「市制町村制」(1889年)が定められました。この地区にあった江戸期の村などが合併して「八柱村」が誕生しました。

当時の八つの村落が「柱」となって支える八柱村となり、大字として紙敷・大橋・和名ヶ谷・秋山・河原塚・田中新田・高塚新田・串崎新田の名が残りました。
 
1943年松戸市制となり、旧八柱村の大字はそのままで1998年JR東松戸駅の開設以降には松戸市紙敷・河原塚・高塚新田の一部が都市計画による区画整理で松戸市東松戸の地名となりました。
 
旧八柱村の地名は、地形や歴史的な古墳、新田開発など人の暮らしにおける生活の仕方や文化などに由来し意味をもちます。
地名は人びとの記憶を共有する装置になっています。
 
その地名や暮らしの中で見て感じる人びとの想いや印象を伝える情景は地域の景観イメージと言えます。

ただ、新田開発の歴史について調べてみると“地域の顔”とはならない歴史的な事実があります。

「高塚新田」については、「新田」=「水田」という誤解が景観イメージをゆがめてきました。
 
地名「高塚」は、当地が小金牧のうちにあり、開発以前から名馬「生月」の墳丘と言われる高塚があったことによるとされています(注1)。
その「生月(いけずき)」は源義経の木曽義仲追討で活躍した馬とされ、ここが産地であったと伝えられています。

この高塚新田付近は下総台地にあり、標高20〜25mで江戸期に開発された“畑(下畑)”と記録されています(注2)。
開発前には「高塚原」と呼ばれる原野(雑木林)であったとされています(注3)。

この事実は、「高塚新田」が、「水田」ではなく、開発前には「高塚原」の雑木林で後に「新畑」になったことを物語ります。

ちなみに、江戸期の新田開発については、菊地利夫氏(注4)により再定義され、台地・荒地などの開発が見直されて新畑も“農地化全般”としての新田に含まれるとされるようになりました。

したがって、高塚新田の“要所”は台地の「新畑」で、東松戸駅周辺の谷津は、紙敷と高塚新田の境界に広がる低地ということになります。
高塚新田が行政地名として残存するため「高塚新田」の“水田”と誤解されやすい傾向があります。
 
また、現在の八柱霊園と付近にわずかに残存する行政地名「田中新田」も同様の事例と理解されます。
江戸期に新田開発された際、この地名は行徳の田中三左衛門が関係し、「当地は行徳製塩のための薪・燃料供給地であったと考えられる」とされています(注5)。

いずれも古くから下総台地西端部の地形にかわわる自然風景を伴います。
江戸期に開発が盛んになり、新畑という新たな土地が「新田」名のもとに印象づけられています。地名によるゆがんだ記憶の装置が共有されました。
この地域では地名が歴史における景観イメージを形成するのに深く関係しています。

景観イメージの変遷

先史の河原塚には旧石器期の関場遺跡や縄文期の貝塚遺跡も発掘されています。
かなり早期にこの地域でヤリや斧などの石器をもって小動物を追いかけたり、木の実を採集したりする狩りと採集の生活が行われていました。
日本列島における先進地になります。

河原塚と紙敷は、それぞれ古代の遺跡や平安時代の伝説に由来する歴史深い地名です。かつては台地の隣接する地域の山林・農地、農村として共通する景観イメージがあります。

河原塚は『下総台地の西端部、 国分川流域に位置し、台地の南側には貝塚や古墳群があり、地名は「かわらけ」(土器)を多く出土する塚の意という』(注6)。
河原塚には5世紀頃に築かれた古墳群が存在し、古くから地域の有力者が拠点を置いていた「権勢のある高台」です。

紙敷は古代末の関東各地で活躍した平将門にまつわる伝承があります。将門がこの地に「上屋敷(かみやしき)」を構えていたという説があり、それが転じて「紙敷」(かみしき)になったと言われていますが、確たる根拠がないと伝えられています。

古代末から中世へ貴族から武士層への権力移行は、人びとには権勢地として目に見える墳丘や館の景観イメージが共有され、記憶に留められています。

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河原塚遺跡:東松戸の“権勢地イメージ”の源

中世には、この付近は武士勢力による牧(まき)がありました。古代の国府に近いため朝廷の軍馬を供給した牧の伝統を引き継いでいます。武将千葉氏などによる馬産・放牧・狩猟の場が、台地原野の利用です。

近世には江戸幕府の小金牧へ発展します。中野牧はその中の一つで幕府直轄の大規模な牧として成立しています。小金原、八柱、六実などに広がりを見せ、柏市・鎌ヶ谷市まで及んでいると明らかにされています。
野生の台地で育った野馬は、一定の時期に野馬捕りされ、江戸などで売られています(注7)。

この地域は歴史上の拠点となって古代から近世まで一貫して“馬を育てる地形”として景観イメージが引き継がれます。

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石みやの森:今に残る野馬除け土手の跡

現代の東松戸が示す“松戸ブランド”の姿

明治期の近代化により成立した八柱村(1889年)は、台地縁辺の小集落からなる農村景観 でした。
東京近郊地域の特異性は、山林・畑の台地を徐々に都市景観イメージへの転換をもたらしています。

都市化の進展
鉄道敷設をはじめとする新たな地域景観はまさに都市化の進展です。東京の首都機能拡大に伴ってこの地域が急速に都市景観イメージを形成しています。
昭和10年、田中新田に開園された東京都立八柱霊園には、人の往来が見られます。松戸市民も含め、東京都民の墓参りや散歩、ジョギングなどです。四季折々に応じた霊園内外の自然景観イメージがあります。
この地域は“まつどに都立八柱霊園”の響く地名できわめて特異性があります。

台地縁辺に集落のあった河原塚、紙敷、高塚新田の一部は、鉄道敷設に伴う都市計画の区画整理により「東松戸」(2012年)へ町名変更が行われました。
駅周辺にはマンションの林立をはじめとして急速に都市化が進んでいます。

住民参加による景観形成
河原塚地区では、坂道のある住宅地に行政と一体となった「グリスロ(小電動車)運行」を自治会・町会によって運営しています。高齢者のスーパーへの買い物,イベント参加の利便性を図る社会福祉や都市インフラ整備などが充実している都市景観イメージも見られます。

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路地裏住宅地を走るグリスロ

第42景 近接する紙敷三つの森(石みや・みなみ・野うさぎ) - 松縁会紙敷三つの森は、東松戸駅から京成成田空港線の北東約1㎞付近に近接しています。 この日(4/22)は、河原塚グリshoenkai-matsudo.com


また、東松戸ゆいの花公園「結いの会」や山林所有者と行政・市民の連携による「森の保全活動」が積極的に展開されています。

多くのボランティアの思いをもつ活動は、環境整備や私有地の有効な活用による温暖化対策、ゴミの不法投棄防止の意義もあります。

紙敷みなみの森千葉県松戸市にある紙敷みなみの森の紹介サイトですminaminomori.thick.jp

豊かな自然環境
高塚新田地区には観光農園向けの「まつどの梨」栽培が行われています。自然とのふれあいや新鮮さを求める人びとは都市近郊の農業景観イメージを受け入れています。
さらに、都市生活者にとって「ドックラン」「ゴルフ練習場」「21世紀の森と広場」など自然景観イメージは親しみやすく、多様なスローライフの実現にふさわしいところとなっています。

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豊かな自然に囲まれたドックラン

家庭菜園の「東まつど市民農園」は東京近郊に移り住んだ市民にとって自然に親しむ場です。地主・地元民と行政が一体となって協力・連携関係を築いています。

豊かな自然環境の保全・活用は、他市町村との違いを際立たせる自然景観と都市景観の共存イメージを特徴としています。

まとめ


松戸市の地形は江戸川低地と下総台地がよく知られています。
 
他市町村との違いとなるその特異性は東京の近接地と相まって東松戸地域が近年「松戸らしさ(ブランド)」をクローズアップしてきました。
 
東松戸の景観イメージの変遷をたどると、先にあげた三つの重層性が「松戸ブランド」を形づくってきた“原風景”です。

近年、都市化の進む東松戸地域の様相は「未来の都市景観」としての「松戸ブランド」を物語ります。

<石橋>

<注>
1・2・5・6 『角川日本地名大辞典』
3 『松戸市史』「近世前期の松戸」
4 『新田開発』 古今書院 
7 『金ヶ作陣屋と村の物語』金ヶ作陣屋研究会編 千葉日報社

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