「ライフスタイル」と松戸の縁 ―居住地選定と海外―

その1 <石橋のメール取材> 藤田さんご一家と松戸市との縁
失礼いたします。先に寄稿いただいた内容<「東松戸地域の魅力」〜スローライフのすすめ〜を読んで思うこと>(「ライフスタイル」と松戸の縁 ―魅力探しの事例― - 松縁会)についていくつかお伺いさせていただきます。立ち入り過ぎのところはお答えなしで飛ばしてください。
<1970年の両親転居> 主な近隣家族の動向(出身地・現在世代の状況―両親世代・二世代・三世代など)入居時記録写真の有無(?)(街並)
<松戸市河原塚選定の事実> 父親の出身地:北茨城市、母親の出身地:(?)
<1969年藤田さんのドイツ留学> 出発空港(?)
<藤田さんの松戸暮らし> ドイツとの往復空港(?) 一時帰国(いつ頃?)
2度目のドイツ行き前家族3人同居(いつから?1年半)
2012年6月 母親との同居・介護(?年)一人暮らし(?年)
<子息家族との団欒渡米> 回数(いつより?)子息家族への往復空港(成田・羽田)
その2 <藤田さんのメール回答> 河原塚開発三世代、海外との出入地について
藤田史郎
原稿の背景(藤田家と松戸市の縁)に関するご質問ですが、分かる範囲で回答いたします。
*1970年の両親転居:主な近隣家族の動向(お隣さんはうちの両親と同じ世代で息子さんご夫婦と住んでおられましたが、現在は二世代目です。お向かいも奥様のお母様がかなり前亡くなられた後、私と同世代のご夫婦二人です。
したがって、河原塚は開発された当時からは三世代目に入っています。子供たちが戻らない家々は長い間空き家になっており、売りに出して買い手がついたところは必ずと言って良いほど敷地が分割され2軒となり、若い家族が入居してきます。子供の声が増えました。
入居時の記録写真は残念ながら見つかりません。
ただ、私のところに「わが街 河原塚 いまと昔の物語」(写真)という河原塚4町会が出した本があります。

*松戸市河原塚選定の事実:母の出身地は東京都港区二本榎(でも母の母方は千葉県君津市(?)出身。その関係で河原塚の地主さんとの伝ができたらしい(?)
*1969年のドイツ留学:私費留学だったので、飛行機代を節約し当時ヨーロッパへ行くのに一番安かったルート(船+鉄道+飛行機のコンビネーション)で行きました。まずは東京晴海埠頭からロシア船でナホトカへ、ナホトカからハバロフスクへシベリア鉄道、そしてそこからモスクワへは飛行機、モスクワでは強制宿泊(2泊)、モスクワから東ベルリンまでは飛行機、東ベルリンから西ベルリンまでは電車を利用。合計5日間を要しました。
*私の松戸暮らし:
最初の一時帰国は1973年夏で、ハンブルグ交響楽団に職を得たので、夏休み4週間中に幼馴染と結婚し、ハンブルクへ。当時はもちろん空港は羽田。
1978年秋に当時 3歳になった長男を連れて家族3人で帰国。1980年春まで河原塚の家に同居させてもらう。その間に音楽財団に職替えし、東京に引っ越すも2度目のドイツ行き前に1ヶ月ほど再び河原塚に世話になった。
2012年6月、ドイツの家を売却し完全帰国。当時、母はまだ横浜の妹に家にいたので、帰国後すぐ家のリフォームを行い同居し始めたのは、その年の秋からです。翌年、輪番制の自治会関連の役職が重荷となりうつ病を発症、アメリカで3ヶ月転地療養、その間母はまた横浜の妹宅へ。アメリカへは成田から出発し、療養を終えて帰国時は羽田着。その後再び母と同居・介護を再開し 2019年12月まで(6年間)。2020年より母は老人ホームに入居。
以後7年間一人暮らし(妻が亡くなってから数えると 20年間一人暮らしと言える)
*次男家族との団欒渡米:孫が生まれた年(2023年)から年2回(毎回4〜5週間)

その3 <石橋の補説> 藤田さんの「松戸との縁」について
藤田さんの自宅は河原塚地区の南山自治会区域にあります。連絡を取り合う中でボランティア活動の「グリスロ」関連などもあり、打ち合わせも兼ねて何度か自宅を訪ねる機会がありました。
河原塚には四つの町会、自治会があります。その中で『わが街 河原塚 いまと昔の物語』によりますと、台地と低地の河原塚でもご両親宅のある南山自治会の区域は台地部に広がる住宅地と春木川沿いの平地からなる、と説明があります(注)。
その本には、台地の開発は企業(日新製鋼)が市川市に製造所を建設したのが、事の始まりだ、と記しています。東京湾の埋め立て地に建てた工場が地盤沈下したため、企業の子会社は南山の森を買って盛り土用の土砂を削り取って市川工場まで運んだとくわしく書いてあります。
その後、南山の分譲は企業の幹部社員の購入や部下への売却などがなされて入居が始まり、多くは東京の会社などに勤める人たちであったと述べられています。当時、通勤手段は新京成八柱駅まで歩き、松戸駅からは常磐線で都心へというコースが説明されています。
藤田さんのご両親は、父親の北茨城市出身、母方の千葉県出身の関係で常磐線沿いの松戸市河原塚に居住地を選定されたと推測されます。
藤田さんの話では、父親の転勤に伴ってご自身が小中学校の転校(大田区、新宿区、田無市、渋谷区、品川区)を繰り返してきたと聞いています。このような体験談からすると、ご両親の永住への思いを推しはかるならば、おそらく郷里との縁から安住の地を選定されたと思われます。
ご両親の自宅づくりは設計を藤田さんの親しい友人滑川潔さんに依頼しています。建築士になったばかりの滑川さんを激励、いたわりながら完成を喜んで住まわれていたと聞いています。
藤田さんは、20代から外国生活をされてきました。その海外への渡航と帰国の“出入地”はどこにあったのか、関心があります。ご実家のある松戸市と海外との行き来には年代によってどこから出て、どこに帰るか異なっています。
現在のご一家からすると海外との行き来については、お孫さんのいるアメリカが一番にあげられます。現在は、東松戸駅を利用するとたいへん便利です。一本の鉄道線で「成田」「羽田」が結ばれています。海外との行き来が多い人にとっては、いずれも選択できる空港立地にあります。都心へも比較的近い東松戸地域の好立地は見逃せない地理的条件です。

さて、藤田さんと松戸の関わりは、当初ご両親の居住地というだけでした。自らが「松戸との縁」を感じられるまでには時間を要しています。お母様の介護のために帰国されましたが、居住地への思いは特になかったと述懐されています。ただ、帰国時の心境はご自身の「ライフステージ」を抜きにしては語れないのではないでしょうか。
藤田さんの「ライフスタイル」について触れさせていただきます。
早くから音楽関係の海外留学と楽団員・音楽財団生活を経験されています。ご両親との暮らしやアメリカ在住の息子さん一家らとの関わりの話を聞いています。その話ぶりにはご自身の「ライフスタイル」があふれ出ているように感じられます。
いたわりを大事にされてきたご両親の話、自立を重んじるお子さんへの接し方などは特にそうでした。友人らとの付き合いや人の集まり・関わりについても、絶えず慈しみをもつ「ライフスタイル」を意識されているように受け止めています。奥様との結婚が幼なじみの縁で一時帰国時だったと伺った際にも感じました。
藤田さんは広い世界のどこにいても過ごすことのできる「ライフスタイル」を確立されている、と多分に想像します。
ご自身の松戸市河原塚生活は、「東松戸の地と第3の人生(最終章)」として位置づけられています。ご自身についての「ライフステージ」は、第1が東京都内の生誕、学校・大学・楽団員まで、第2がドイツでの外国生活、と理解します。
第3の「ライフステージ」を松戸の地で過ごされている現在、海外にいる3歳お孫さんとの関係があります。顔合わせは大きな意味を有します。成長の著しいお孫さんの心身を見守ることはもちろんのこと、ご一家コミュニケーションの機会です。年に2回の海外との定期的な行き来をし、この夏シーズンも共に暮らすことのできた喜びを語られています。
藤田さんは実に好都合のところにいると言われています。その際に行きは成田空港から、帰りは便の関係で羽田空港、いずれも東松戸駅の利用であったため特に不都合はなかったとの話。
藤田さんの「千葉県民」「松戸市民」の住民意識は、ボランティア活動によって掘り起こされたようです。そのボランティア活動の有様は、おそらくご自身の「ライフスタイル」を実践されています。そのことは、次の「ドイツの森とボランティアの森(紙敷)」、「スローライフ(?)と自己実現」を予定したいと準備を進めています。
<石橋>
<注>
『わが街 河原塚 いまと昔の物語』 河原塚歴史編纂委員会 2016年 千葉日報社

